表面上は冷静に全速で階段を駆け下りるシンだったが、体の芯から立ち上る怒りは一向に収まらない。
あとコンマ1秒、引き金を早く引けば。あとコンマ1秒、奴が気づくのが遅れればー……
(遅れればなんだというのだろうか)
「……アスラン=ザラ!」
この期に及んで暗殺が失敗したことへの憤怒の怒りが喉の奥から吐き出された事へのやり場のない怒りがアスランへの怒りとなって漏れ出した。
《撤退も作戦の内だ。手はずを忘れるな。治安警察もすぐにここを嗅ぎ付けるぞ》
「分かっている!」
レイの指摘にもシンは苛立ちでしか答えられない。ここは廃ビルなので、エレベーターは使えない。
階段を駆け下りる途中、シンは打ち捨てられたトイレにチェロケースとライフルを乱暴に投げ込むと、携帯型のテルミット弾にタイマーを仕掛け放り込んだ。テルミット弾は鉄すら溶かす数千度の超高熱を発する爆弾だ。これで不要になった装備は瞬時に焼却される。廃ビルを出た辺りで、背後から熱風が吹き付ける。おそらく仕掛けたテルミット弾が炸裂したのだろう。
だがそれに一瞥もせず、シンは打ち捨てられたビルの狭間を駆け抜けていった。
「くそっ!一体俺は何をやっているんだ!」
昔とほとんど変わっていない自分への苛立ちと嫌悪が彼を支配していた。それを認められず本意では無かったはずの、ユウナの為に買って出た汚れ役である暗殺の失敗を本気で悔しがる事で発散している自身にも気付いていた。
「これじゃああの時と何も成長していないじゃないか……!!」
事件発生から1時間後。治安警察本部、発令所。
有事の際には警察関係者はここで指揮を取る事になっている。正面巨大モニターでは、相変わらずパニックに陥っている式典会場を映す中、無数の部下達が刻々と集まる情報を逐次チェックし、あわただしく現場の部隊に指示を出していた。
「軍に任せてみればこの有様か。やれやれ」
「式典全体の警備指揮権を強硬に要求したのは彼らです。責任は免れないでしょう」
小さなビルがすっぽり入ってしまうかと思われる程の奥広い発令所。その一番奥にその周囲からひと際高く中央にそびえ立つ長官専用席が設けられていた。
そこでは豊かな顎鬚を弄りながら壮年の男性は呆れたような感心したような様子を見せている。一方、彼のそばには赤髪の女性が厳しい眼差しのまま立っていた。
「しかし主席が無事だったのは僥倖だ。もしもの事があれば我々も只では済むまい」
「SPの報告によると夫が助けたとの事です」
「夫……?そうか、アスラン=ザラ近衛総監は君のご夫君だったね。メイリン=ザラ君」
「はい。ライヒ長官」
治安警察長官ゲルハルト=ライヒ。その傍らに立つメイリン=ザラは、表情も変えず上司に答えた。
「状況は?」
「先ほどスタジアムにある監視カメラのデータを解析。テロリストの狙撃場所が判明しました。いずれもスタジアムを中心に半径3km以内。市内三箇所にある高層ビルで、内一ヶ所は再開発地区の廃ビルです。すでに市内全域に非常警戒警報を発令。非常線を張り、主要各道路で検問を行っています」
「ふむ」
「また該当場所の監視カメラならびに市内全域の監視カメラのデータをリンク。コンピューターで容疑者の特定、行動形跡を解析中です。さらに市内を走る全車両の行動ナビゲーションも追跡。監視カメラのデータとリンクさせ、テロリストの使用車両を特定します。2時間以内には全ての目標が判明するでしょう」
「上出来だ」
オーブ全域に配備されている監視カメラは治安警察のメインコンピューターと常時リンクし、監視ネットワークを形成している。
監視カメラはただ映像を撮るだけでなく各種センサーも持っており、そこから得たデータを元に被写体の3Dモデルも作ることが出来る。またオーブで使われている全ての車両、自家用車、バン、トラック等のナビゲーターも同じく監視ネットワークに組み込まれている。
これらによりオーブで動くあらゆる人間のあらゆる行動情報が引き出せるのだ。まさに蜘蛛の巣の如き監視網であった。階下の女性オペレーターがメイリンに報告してくる。
「18区で容疑者のものと思われる不審車両を発見。現在ルート42を南東21区方面に逃走中。207号車、208号車、無人警戒ヘリ105号、112号が追跡しています」
「付近の部隊に連絡。道路を封鎖し出口で確保しなさい。抵抗するなら射殺も許可します」
「了解」
追尾中の無人ヘリから送られてきたのだろう。現場からの映像が巨大モニターの一角に映し出される。
「しかしあまりにもずさんな計画だ…多くの民間人の巻き添えもお構いなしか、吐き気がするね。」
ドーベルマンはそう呟きながら一瞬顔を歪ませるが、すぐにいつもの表情に戻り仕事に取り掛かる。
四車線の湾岸道路を猛スピードでライトバンが走り抜ける。それを何台ものパトカーが追走、上空からは数機の無人ヘリまでが追ってくる。
《そこの車両、指示に従い速やかに停車せよ!命令に従わない場合は、発砲も辞さない!!》
「くっそおおおおお!!!」
風に紛れて途切れ途切れに聞こえてくる警告に向けて、男はマシンガンの乱射で答えた。だが追撃車は全く意に返さない。男が乗る車との距離をじりじりと詰めて来る。
「早すぎる!何でこうも早く俺たちの居場所がばれたんだよ!?」
「お前、はしごの下でも歩いたか?」
「抜かせ!」
ハンドルを握り、アクセルを一杯に踏み込む相棒の軽口に、男は怒鳴り声で返す。
「他の連中は?」
「わからねぇ。無事に逃げたのか、俺達みたいに追われてるのか。あるいは……。警察通信を傍受してれば、俺達βチームがヤバいのは皆知ってるだろう」
「……全部隊に通信してくれ。俺達に構わず逃げろってな」
「……とんだババ引いちまったな」
「ああ」
運転していた男が、通信機で各部隊に連絡する。各自、自由判断で脱出しろ、と。その時、彼らを弄ぶかのように無人ヘリが接近してきた。
「ざけやがって!落ちろぉ!!」
後部座席にあったグレネーダーを持ち出し、放つ。
爆発。
ヘリは跡形も無く四散した。
「ざまあみやがれ!」
だが安堵したのもつかの間、彼らの進路を巨大な人型が阻んでいるのが遠くに見えた。治安用無人モビルスーツ、ピースアストレイだ。その手に持たれたライフルが火を噴く。
「畜生!」
次の瞬間、男達の乗るライトバンは一瞬で弾けとんだ。
「……はあっ」
空のカップを見つめながら、ソラは疲れたようにため息をつく。あれからもう5時間経っている。喫茶店から見える外の景色は、パニックの一言だった。サイレンの音はいつまでも鳴り止まない。
パトカーや救急車、消防車が何度も行き交い。検問のためか道路は渋滞の列が連なっている。クラクションやドライバーの罵声が激しく響き、歩道は混乱した群衆でごった返す。時折殺気立った人々が往来で喧嘩まで起こしていた。
《現在、市内全域に非常警戒警報が発令されております。市民の皆様は当局の指示にしたがって……》
拡声器やTVから同じフレーズが壊れたレコードのように何回も繰り返されている。オーブの首都、オロファト市中は今や祭りが転じて大混乱に陥っていた。
どうしようもない。
バイト先の喫茶『ロンデニウム』のカウンターで、ソラはただぼーっとTVを見つめるしかなかった。同じような緊急特番が延々と続く。式典の行われていたスタジアムがテロリストに襲撃された、という。だがそれ以上の話は出てこない。代わりにコメンテイターとアナウンサーが無意味な推測を繰り返していた。
カウンターの向こうでカップを拭きながら、マスターが心配そうに話しかけてくる。
「混乱はまだ収まってないようだね」
「ええ、そうみたいです」
「これじゃ、バスもまともに動いてないだろうなあ」
「……」
バイトの時間はとっくに終わったが、街がこの有様なので帰ろうにも帰れない。そこで心配するマスターの「少し様子を見てみたら?」という薦めもあったので、しばらく落ち着くのを待ってみたのだ。だが市中の混乱は一向に収まりそうに無かった。せめて寮や友達に連絡を、と思い携帯電話をかけてみる。
《現在、回線が混み合っており、大変通話しにくくなっております。しばらくお待ちになってもう一度……》
聞き飽きた録音音声しか返ってこない。ソラは電源を切る。
日が沈み、外灯に灯が灯る。もう外はすっかり暗くなった。窓越しに行き交う人々は相変わらず右往左往し、この喫茶店にも時折騒ぎに疲れきった客が休憩しに入ってくる。誰も彼もがどうしていいのか判らないようだ。
マスターお気に入りの古い柱時計が、重々しい音を鳴らし19時になった事を告げる。少し迷ったあと、ついにソラは決めた。
「マスター。私、そろそろ帰ります。きっと寮母さん達も心配しているでしょうから」
「いいのかい?まだ騒ぎは収まっていなし、バスもまともに走ってないみたいだけど」
「大丈夫です。なんだったら歩けばいいですし」
「……そうか。じゃ、くれぐれも気をつけるんだよ」
「はい。マスター、お昼どうもご馳走様でした」
ソラはマスターにペコリとおじぎすると、喫茶店のドアを開けた。いつも聞きなれたドアベルが軽い音を立てる。
「じゃあ、また明日もよろしくね。ソラちゃん」
「マスターもお疲れ様でした」
別れを告げると、ソラは軽い足取りで夕闇に沈む街に駆け出していった。
「……ってえ」
《掠り傷だ。問題ない、シン》
「お前が言うなよ。……で、ここはどこなんだ。レイ」
《24区と23区の間というところだ。アジトまで時速4kmならあと30分で着く》
「気軽に言ってくれる」
左腕の通信機が電子音声で現状を告げる。気を使っているのかいないのかいまいちよくわからない物言いだ。
傷を負った左腕が痛む。壁にもたれかかった重い体を何とか動かして、誰もいない真っ暗な細道を一歩一歩足を進める。まるで鉛を背負ったようだ。遠くからパトカーのサイレンが聞こえるが、辺りには気配がない。治安警察はまだ自分達を掴んでいないのだろう。
「コニール達は……無事かな……」
《不明だ。だが警察無線では何も伝えてない》
「βチームは……。やはり駄目だったんだよな……」
《ああ》
「……」
わかっていたことだ、彼らは囮役だ。
人気の無い暗い裏路地を、シンはゆるゆると歩く。
シンにとっても治安警察の行動は想像以上に素早かった。狙撃に失敗したあと再開発地区を抜け、βチームの支援に向かうつもりだった。監視カメラをかい潜るために裏路地を使ったが、すでにいくつか引っかかっていたらしい。無人ヘリに察知され銃撃を受けた。左腕の傷はその時のものだ。
シンは銃撃を付近の建物の影に隠れて避け、そして同時に発煙弾で目くらましをかけた。周囲の建物が邪魔で高度を下げることも出来ない無人ヘリが、視界を封じられて右往左往している隙に、付近の地下下水溝に飛び込んでなんとか危機を脱したのだった。
その後、下水溝をさ迷って出てきた先が今いる所の付近、というわけだ。おかげで少し臭いが、そんな事を気にしている場合ではない。レイのナビゲートが無ければ、地下迷宮の中で自分は一体どうなっていたか。今生きている事がすでに僥倖なのかもしれない。
「……アスラン=ザラめ……!」
その名を何度口にしたのか、そのたびに自己嫌悪感に苛まれてきた。わかっている、これは逆恨みなのだということは。
《終わったことを悔いても始まらないぞ、シン。今は生き延びることだけを考えろ》
レイの忠告に、シンはただ歯噛みするしかなかった。
「えっと……ここ、どこだっけ?」
右を向いても左を向いても、知らない道。見覚えの無い街角。辺りは倉庫の様な建物が壁のように延々と立ち並んでいる。暗闇を照らす外灯も所々壊れていて、明るいところの方が少ない。すっかり夜道に迷ったようだ。
「あ~んっ。こんなのだったら、近道なんかするんじゃなかった~」
よもやの状況に、ソラはひどく後悔した。
バイト先の喫茶店を出たソラが目にしたのは、歩道に溢れかえる群衆だった。人、人、人でぎっしり詰まっていて、割り込む隅間もない。交通機関がマヒしているのか誰も彼もが歩いて帰るしかない様で、しかも人の群れはちっとも前に進まない。このままでは寮に帰る頃には夜が明けているだろう。
そう思ったソラは裏道を通る事にした。この辺の道は詳しく知らないけど、何二、三本外れて回り道するだけだし――そう思って。ところが、気づけば周囲は異世界とも思える見知らぬ通りだった。
携帯電話をONにして、ナビゲーションシステムをもう一度呼び出す。しかし――。
《現在、回線が大変混雑しています。もうしばらく――》
「ああん!もう!」
携帯電話は相変わらず答えてくれない。
切る。
埒が明かなかった。
――遠くでパトカーや救急車のサイレンが鳴っている。
なのに右も左も暗い路地が囲み、高く黒い壁のように倉庫の群れが周りに立ちふさがる。
わからない。
ここがどこだかわからない。
誰もいない。
ソラ以外誰もいない。
ふと急にソラは怖くなった。
「……嫌」
暗い森の奥に迷い込んだ子羊のように、その肩は小さく震えていた。
不意に彼女の中で"古傷"が思い出される。
一人ぽっちで暗い世界に取り残される、何度もよく見た嫌な夢が。
父と母が突然ソラの前からいなくなったあの日から、夜毎それは何度も繰り返されたあの嫌な夢。
「……嫌……嫌ぁ!」
有無を言わずソラは駆け出した。
誰でもいい。とにかく誰か人に会いたかった。
自分は一人じゃない。そう安心したかった。
遠くの街の明かりを目指して、とにかく走って走って走った。
そして――
「……はぁはぁ」
どこをどれぐらい走ったのか判らない。息切れと動悸が収まらない。少し疲れたソラは休む事にした。そして荒い息をしながら座れるところは無いかと周りを見たその時、ふと彼女の目に不意にそれは飛び込んできた。
血。
赤い血。
暗闇にぽっかり浮かぶ外灯の明かり下、点々とそれは続いていた。
「……何……これ……?」
まるで何かの道標の様に、それは彼方へと続いていた。
ふらりと何かに誘われたようにソラはその血痕の痕を追って歩く。
血。
生きた人の証。
もしかしたらソラは人の"匂い"を感じたのかもしれない。
この先に誰かいる、と。
不思議と危険な予感はしなかった。
もしかしたら独りで取り残される事への恐怖が、彼女の感覚をマヒさせていたのかもしれない。
一歩、また一歩と血痕を追って歩く。
しばらくすると一番端の倉庫棟の小さな通用ドアにたどり着いた。
「ここかしら……?」
ドアを軽く押してみると、少し引っかかるような音を立てて力なく開いた。カギは掛かっていなかった。
入ってみるが、床は暗くて血痕はもう見えない。
倉庫内は大小のコンテナがいくつか脇においてあるだけで、別世界のようにしんと静まり返っていた。虫の声ひとつ聞こえない。
がらんどうの倉庫の真ん中に、天窓から月の光が差し込む。舞台照明のように、暗い空間にぽっかりと光が浮いていた。
その中にソラは立ってみる。倉庫の中央、スポットライトのような月明かりがソラを照らす。
まるで観客のいない、独りだけの舞台のよう。
誰もいない。
ここには自分以外誰もいない――と、そう思っていた。
「誰だ」
「!?」
不意にソラの横から殺気の篭った声がかかる。それまでなかったものが、突然その場に浮き出たように。
ソラはとっさに声の方を見た。そこには――。
倉庫の壁際、その暗闇の中に一人の青年が箱か何かに腰をかけていた。公園で出会ったあの黒衣の青年――。
彼が目の前にいる。直感でソラはそう気づいた。
黒衣の青年はあの時と同じ紅い眼差しで、じっとソラを見つめている。しかし唯一違うのは、その殺気が今ソラに向けられている事。
ソラは声を出そうにも声が出なかった。逃げようにも体が全く動かなかった。あの血痕を見たときこうなる事は分かっていたのに、分かるべきだったのに。
どうしよう。どうすればいいのか。
しかしマヒしたソラの感覚は正常な考えを一向に出してくれない。今、孤独とは別の恐怖が、ソラを完全に支配していた。
「あ、あの……、私……」
無意識に声が出る。
すると、青年の右手が静かに上がった。
その手にあったのは――銃。
「まさか…ニュースのテロリスト!?」
青年の銃口がソラに向けられていた。